渡部 武教授关于中国古农书和传统农具研究的回顾与展望(日文)

日本秦漢史学会第二一回大会記念講演

中国農業史研究の回顧と展望―中国古農書と伝統農具研究を中心として―

渡部 武(東海大学文学部特任教授)

 

  はじめに

 私は東海大学文学部(歴史学科東洋史専攻)に二六年間奉職し、本年(二〇〇九年)三月をもって定年を迎えました。そして引き続き特任教授として三年間同じ職場に勤務する予定でおります。この人生の節目にさしかかって、これまでの自分の研究生活を顧みると、いろいろやり残した仕事も多く、内心忸怩たる思いがいたします。今回、本学会の特別の計らいで講演の機会を与えてくださいましたので、演題にも掲げましたように「中国農業史研究の回顧と展望」というテーマで話してみることにいたします。副題に「中国古農書と伝統農具研究を中心として」と添えましたのは、中国農業史研究における私の主たる関心の一つが中国農書であったことと、また一九八〇年代以降、私は西南中国諸民族の在来農具の調査に多くの時間を費やしてきたからです。ことに農法や農具体系に関わる農耕技術の解明には、文献史料の精査だけでは限界があり、「百聞は一見に如かず」と言われますように、フィールドワークを実施することで、そのミッシングリンクを接合してみようと考えました。

 わが国では戦前から戦後にかけて、文献研究およびフィールドワークの両面から中国農業史研究を展開したのは天野元之助氏(一九〇一~八〇)で、周知のように天野氏は中国農業史研究に偉大な足跡を残されました。たとえば『中国農業経済論』『中国農業史研究』『中国農業の地域的展開』『中国古農書考』などの大著はその成果であり、後学の私たちはこれらの著作から汲めども尽きぬ恩恵を享受しているわけですが、天野氏にはこれ以外にも印刷に付されていない草稿類がまだ多くあります。幸いなことに本日ここに出席されておられる流通経済大学の原宗子教授、および現代中国農村経済を研究しておられる東京大学社会学研究所の田島俊雄教授らのご尽力により、関係資料や草稿類が「天野文庫」として原教授の所属大学の収蔵に帰したのは慶賀すべきことです(その詳細内容については以下の目録を参照のこと。原宗子編『流通経済大学天野元之助文庫』流通経済大学出版会、二〇〇三年)。もし天野氏についての詳細な評伝が出版されましたならば、戦前から戦後にかけての、わが国における中国農業史研究の軌跡が明らかにされることでしょう。それにはまだしばらく時間がかかりそうですので、私の調査経験を踏まえて、その隙間を若干補綴するような話をしてみることにします。

 

  一、中国古農書研究の歩み

 (1)中国古農書の系統と分類

 最初に「古農書」という語彙について説明しておきます。『氾勝之書』『四民月令』および『斉民要術』などの農書の精緻な注釈で定評のある石声漢氏(生物学者、農学者、一九〇七~七一)に、『中国古代農書評介』(農業出版社、北京、一九八〇年)という八〇頁ほどの著作があります。この小冊子は実によくできた中国農書の手引き書で、先秦時代から清代までに著された代表的な農書とその特色、および時代背景を簡潔かつ明快に解説しております。本書の取り扱っている時代範囲をもう少し厳密に言うならば、先秦時代からアヘン戦争(一八四〇~四二)までを対象としております。現代の中国の歴史家たちはアヘン戦争以前を古代と呼ぶ習慣があり、本書を日本の読者のために翻訳したとき(『中国農書が語る二一〇〇年』思索社、一九八四年)、私はこの語彙を「前近代」と、また「古代農書」を「古農書」とそれぞれ訳出しました。石氏がアヘン戦争を境にした時代区分に拘泥したのは、これ以後欧米の農学が多く伝えられ、従来の伝統的な中国農学とは異なる理論や価値観が提示され始まったからです。天野氏はこのような時代区分論をもって「古農書」という語彙を用いておりませんが、著書の『中国古農書考』(龍渓書舎、一九七五年)には欧米の農書の翻案的なものは排除しており、石氏とやや近い立場に立脚して中国農書を著録しております。

 現存する中国古農書の全貌を最初に明らかにしたのは、北京農業大学(現、中国農業大学)の王毓瑚氏(一九〇七~八〇)で、その著書『中国農学書録』(中華書局、初版、一九五七年。新修訂版、二〇〇六年)には、現存の古農書が約三三〇種取り上げられております。また王氏は、今後新たに古農書が発見されたとしても合計五〇〇種を超えることはあるまいと予測しております。前掲の天野氏の著書で取り上げられている農書の点数は約二八〇種で、この数値は王氏の数値を下回っておりますが、それは関係典籍の閲覧が不便な情況下で、天野氏ご自身が現物の農書をいちいち確認しながら到達した数値ですから、敬服に値する調査結果です。

王、天野両氏による中国古農書の解題が公表される以前には、毛雝と万国鼎(一八九七~一九六三)両氏による『中国農書目録彙編』が一九二四年(民国一三)に刊行されております。本書は後に台湾でリプリント版が出され容易に見ることができますが、書中に収められているのは、総記・時令・農具・水利など二一類に区分された文献名(複数の類にまたがる場合には重複もある)で、各書物についての解題を欠いております。その中には類書や政書なども列記されておりますから、王、天野両氏の解題書とは大きく性質を異にしております。

 また山東省蚕業研究所の華徳公氏によって、養蚕と桑栽培方面にのみ限った解題書『中国蚕桑書録』(農業出版社、北京、一九九〇年)が編集されており、華氏は序文中において「本書には、漢代から清末までに著された総合的古農書五六種および蚕桑専門書二一〇種、合計二六六種を著録してある」と記しています。この蚕桑書の多くは、中国各地の養蚕地帯で出版され、きわめて地方的色彩の濃い技術書です。そしてまた公的な図書館に架蔵されずに民間に埋もれた蚕桑書も多くあるはずです。私自身も、四川省成都市の杜甫草堂近くの青空市で清末の蚕桑技術書を入手した経験がありますから、今後、この種の農書の発見には大いに期待が持てます。

 ところで、石声漢氏は前述の『中国古代農書評介』において、古農書を以下の三通りの観点から区分する方式を提案しております。

第一は、私撰農書と官撰農書の区分。多くの古農書は地方官、荘園地主、あるいは隠棲した知識人などによって自発的に著されました。これが私撰農書で、その代表的なものとして北魏の賈思勰の『斉民要術』、唐代の陸亀蒙の『耒耜経』、南宋の陳旉の『農書』、明末清初の張履祥の『補農書』などを挙げることができます。それに対して、王朝が国策の観点から編纂させたのが官撰農書で、その代表的なものとして元朝の『農桑輯要』と清朝の『欽定授時通考』があり、いずれも征服王朝下で編纂されていることに興味を覚えます。

第二は、専業農書と総合農書の区分。専業農書とはある特別の分野、たとえば養蚕、果樹や花卉の栽培、茶樹栽培と製茶、家畜の治療などを扱った書物を指します。それに対して、総合農書とは各種作物の栽培から蚕桑、畜牧等のいくつかの分野にわたったことを記した書物です。

そして第三は、農家月令型農書と農業知識全書型農書の区分。農家では月ごとの各種の農事や祭祀をこなすことによって一年を終えるのですが、このように月暦形式で著した農書を農家月令型農書と称しております。後漢の崔寔の『四民月令』や元朝の魯明善の『農桑〔衣食〕撮要』がこの類の農書に相当いたします。それに対して、農業知識大全型農書とは、穀物・蔬菜・果樹・商品作物等を含む各種作物の栽培、耕作の方法(いわゆる農法)、畜牧、養魚、および食品加工(東畑精一の言葉を借用するならば、イギリスの昔の農書に頻出するCottage industryに相当)に至るまでを記した農書のことで、その筆頭に『斉民要術』を挙げることができます。また両者のタイプの農書の折衷型として、唐末・五代の韓鄂の『四時纂要』があります。

農書というものは、人びとが長い歳月の間に蓄積してきた経験を集大成した一種の実用書ですから、著者の独創的な思想を書き下ろした類のものではありません。本草書と同様に従来の蓄積に刪改を加えながら新たなる情報を添えていきます。したがって、歴代の農書に盛り込まれた内容(農作の適時、土壌知識、農法、蚕桑、挿絵など)には先後に継承関係があり、石声漢氏は『中国古代農書評介』の巻末にそれらの内容の継承関係を明示した「農書系統図」を掲げてくれております。これは実によく整理された系統図であり、石氏の農書研究の精髄がここに凝縮されていると称しても過言ではありません。この系統図の原図は、陝西省楊凌の西北農業大学(現、西北農林科技大学)の古農学研究室に、石氏自筆(石氏は書法家としても著名で隷書の名手)の軸装されたものが展示されています。

 

 (2)『斉民要術』を通じて見た日本と中国の古農書研究

 石声漢氏の「農書系統図」でとびきり重要視されているのは、賈思勰(五世紀末~六世紀半ば)によって著された『斉民要術』全一〇巻です。著者の賈思勰は鮮卑拓跋氏の北魏王朝に仕えた漢族で、その経歴は本書に「後魏高陽郡太守賈思勰撰」と肩書きが示されているほかは、彼の事跡はほとんど判明しておりません。高陽郡の地名比定については、瀛州(河北省河間)説と青州(山東省臨淄)説の両説があります。また『魏書』巻七二および碑文(賈思伯碑)に、賈思勰の輩行に関係があると思われる人物、賈思伯・賈思同兄弟の名前が見られ、彼らの出身地が斉郡益都(山東省益都)であるところから、賈思勰は山東の望族出身と考えられます。

 『斉民要術』は北魏が東西両魏に分裂しかかる頃(六世紀前半)に著述されました。前半の五巻においては、穀類・蔬菜・果樹・有用樹木などについて述べ、華北の乾燥寡雨地帯における乾地農法(dry farming、中国語では保墒農法と称する)のしくみを詳細に説明しております。また後半の五巻においては、畜産、養魚、醸造加工などについて解説し、いずれの記事に関しても多くの先行文献に依拠し博引傍証に努めているだけではなく、実地調査や農民からの聞き書き、あるいは自らの実験成果などを援用して、その執筆態度は厳正の一語に尽きます。本書が中国古農書の白眉と言われてきたのも当然だと思います。

 しかしながら、この『斉民要術』を読解するには、きわめて多くの困難を克服しなければなりません。それをアルプスのアイガー北壁登攀に喩える方がおります。ある意味では、『斉民要術』の研究の歩みにこそ、日本と中国における中国農業史研究の足跡が明瞭に印されているともいえます。以下、日本と中国おける本書の研究の足跡をたどってみることにいたします(ついでにヨーロッパにおける研究についても若干言及しておきます)。

 

 a.日本における『斉民要術』の研究

 わが国において『斉民要術』の書名が初めて見えるのは、平安中期の藤原佐世(?~八九八)が残した日本最古の漢籍目録『日本国見在書目録』においてです。藤原佐世は陽成天皇(在位、八七六~八七)のときに、『孝経』御進講の際の都講や大学頭に任ぜられ、宮中所蔵の漢籍を閲覧しやすい立場にありました。貞観一七年(八七五)の冷然院(天皇家の後院)の火災、元慶七年(八八三)の図書寮の炎上を機会に、彼は漢籍の充実の必要に迫られて当該目録を作成したと考えられております。その農家の条に、唐代の則天武后が命じて編纂させた農書「兆民本業三巻」と並んで「斉民要術十巻 舟陽賈協思撰」が登録されております。「舟陽賈協思」は「高陽賈思勰」とすべきところを筆写生が写し誤ったのでしょう。つまり、九世紀末にわが国には『斉民要術』が将来されていたことになります。当時はまだ版本の時代ではありませんでしたから、それは鈔本であったはずです。

 それから、わが国には『斉民要術』の北宋版残巻と金澤文庫本旧蔵鈔本が伝存しております。

前者は高山寺の所蔵で、現在は京都国立博物館に寄託されておりますが、幕末に一時高山寺から江戸の方に取り寄せられ、漢学者の間で鈔写が行われました。そのときの鈔本が内閣文庫(国立公文書館)に架蔵されております。『改訂内閣文庫漢籍分類目録』の子部農家類の条の「斉民要術、(高山寺蔵北宋刊本)存二巻(巻五、八)、後魏賈思勰撰、江戸期写」がそれです。また辛亥革命後、羅振玉(一八六六~一九四〇)が京都に仮寓したときに、この残巻をコロタイプ印刷によって彼の編集した「吉石盦叢書」に収めております。(ついでに記しておくと、この秦漢史学会大会の一ヵ月後に、京都国立博物館で開催された「シルクロード・文字を辿って―ロシア探検隊収集の文物―」展の参考文物として、この北宋版残巻が展示された)。

後者のいわゆる金澤文庫本『斉民要術』鈔本は、きわめて数奇な運命をたどって、尾張徳川家の蓬左文庫(現、名古屋市立の専門図書館)の収蔵に帰しました。金澤文庫から流出し蓬左文庫に収まるまでの顛末につきましては、農学者小出満二氏(一八七九~一九五五)が尋常ならざる熱意をもって追跡調査しており、その報告「斉民要術の異版につきて」(『農業経済研究』第五巻第三号、一九二九年)において初めて明らかにされました。それによると、この鈔本は文永一一年(一二七四)に北條実時(金澤(かねさわ)実時、一二二四~七六)の命により、京都より『斉民要術』の鈔本(たぶん北宋版からの鈔本)を借用しこれを筆写させ、その二年後に近衛羽林の唐摺本(北宋版)でもって校訂しております。実時は生涯に政書『群書治要』を二度筆写しておりますから、『斉民要術』を農政書として利用することを考えていたのかもしれません。その後、天正年間(一五七三~九二)に本書は豊臣秀次によって持ち出され、京都相国寺の僧の手を経て、慶長一七年(一六一二)に徳川家康に献上されるのです。家康はそれを手元において、没後に御譲本として尾張家に下賜されます。本書は家康所持時代にすでに第三巻が亡佚しており、尾張家所蔵時代にはほとんど注目されることもなく、大正一五年(一九二六)十一月の読書週間のときに至って、名古屋図書館で尾張徳川家(蓬左文庫)所蔵本の展示によって、ふたたびその姿を現したのです。本書は戦後の物資不足の時代に、農業総合研究所の東畑精一所長の配慮によって影印出版され(一九四八年)、周知のように、その後の日本と中国の『斉民要術』研究に大きく貢献することになるのです。

それから、江戸時代において『斉民要術』は二度にわたって和刻本が刊行されます。第一回目は延享元年(一七四四)で、伊勢地方出身の漢学の素養のある山田好之(号は蘿谷)が津逮秘書本(明・毛晋の編)によって訓点を施し、京都の書肆山田参郎兵衛がこれを出版しています。第二回目は文政九年(一八二六)で、延享本の蘿谷の序文を仁科幹(号は白谷、一七九〇~一八四五、亀田鵬斎の弟子)の序文に差し替え、訓点を補訂したものです。山田蘿谷という人物の経歴は定かではありません。序文によると伊勢および河内・摂津地方で三〇年にわたって開墾に従事したことがある「伊勢の拙農」とのことです。そして興味深いことに延享本の奥付に、以後の刊行予定中国農書として『農桑輯要』『農圃六書』『農政全書』『農桑撮要』『王氏(王禎)農書』『農桑通决(訣)』の六種(『農桑通訣』は『王禎農書』中の一篇であるから正しくは五種)が告示されているのです。しかし、残念ながらこれらの中国古農書は刊行された形跡はありません。和刻本『斉民要術』は、徐光啓の『農政全書』を換骨奪胎して日本の風土に適用できるようにした宮崎安貞(一六二三~九七)の『農業全書』ほど流行しませんでした。また江戸期の農学にほとんど影響を及ぼしませんでした。

 日本人による本格的な『斉民要術』の研究は、昭和一三年(一九三八)に農学者那須晧氏に従って北京の農村経済研究所(北京大学農学院に併設)に赴任した西山武一氏によって着手されます。この研究所は日本の国策に沿って、中国の農村の経済、行政、制度、生活を実地研究し、あわせてその方面の専門家や農村の指導者を養成する任務を負っていました。そして西山氏はしばらく試行錯誤した末に、昭和一六年(一九四一)に所内に『斉民要術』輪読会を組織いたします。西山氏の回想録(『永日抄―西山武一伝―』同書刊行会、一九八七年)によると、この輪読会に参加したのは、西山氏のほかに錦織英夫、斎藤武、熊代幸雄、渡辺兵力、山田登の諸氏で、それに中国史研究で北京に留学中の原田文学士(中国考古学者原田淑人のご子息正己氏、早稲田大学時代の私の中国語の先生でもある)もチューターとして加わりました。その時に併読テキストとして用いられたのが、ウィドソウの『ドライ・ファーミング』(John A.Widtsoe ; Dry Farming,1911.)と許維遹の『呂氏春秋集釈』で、とくに前者のウィドソウの著書は華北の乾地農法のメカニズムを土壌学、気象学の方面から科学的に理解するのに役立ちました。また現地の農民および朝鮮農事試験場の高橋昇氏(植民地統治時代下の朝鮮半島農業について膨大な調査記録を残し、その主要ノート『朝鮮半島の農法と農民』が一九九八年に未来社より刊行された)からも貴重な助言を得たとのことです。

 しかし、この北京の農村経済研究所での『斉民要術』の輪読会は、日本の敗戦によって頓挫し、その釈読作業は現地において完成しませんでした。戦後において、この『斉民要術』研究の重要性を強力に支援したのは、前述の農業総合研究所長の東畑精一氏(一八九九~一九八三)でした。彼は戦前にドイツのボン大学に留学し、著名な経済学者シュンペーターの下で学び、日本の農業経済学に経済学的基礎を与えたばかりでなく、農総研やアジア経済研究所の所長をも歴任し、すぐれた行政能力をも兼ね備えた稀有な研究者でした。たとえば、イギリスの中国科技史研究者ジョセフ・ニーダム(Joseph Needham、一九〇〇~九五)の一連の研究、とくに『中国の科学と文明』(Science and Civilisation in China)の価値をいち早く見出し、わが国において翻訳出版の道筋をつけたのも東畑氏でした。このような学問のパトロンの支援の下に、中国から引き揚げてこられた西山武一、熊代幸雄両氏は『斉民要術』の研究を再開し、本書の詳細な訳注書『校訂譯註斉民要術』(上下冊、一九五七・五九年。一九六九年にアジア経済出版会から合本再版される)を農総研の報告書として刊行し、この仕事に一応の区切りをつけたのでした。

 ところで、この訳注の上冊(巻一~巻六)は西山氏が、また下冊(巻七~巻九)は熊代氏がそれぞれ担当し、巻十の「五穀、果蓏、菜茹非中国物産者」については訳注の対象から外しています。その理由は、この巻で扱われている穀類、果樹などの植物は、北魏が支配する中国(つまり秦嶺―淮河以北の中原地帯)の物産ではなく、著者の賈思勰はこの巻を執筆するのに多くの間接的な情報に基づいており、後世の人びとにとって、それらを植物学的に厳密に同定することが困難であったからです。それも一つの学問的見識だと思います。

 今から二年前の二〇〇七年九月に、私は農水省のOBたちで組織された農林水産技術情報協会の「昭和農業技術研究会」の例会において、前述の西山、熊代両氏の『斉民要術』研究を含めた「わが国における中国農書の受容と研究の歴史」という報告を行ったところ、参加者のある方から以下のような指摘を受けたことがあります。それは、両氏が苦労の末に『斉民要術』を通して中国の乾地農法について明らかにされたのに、戦後、その成果がアジア的農法の系譜構築のために充分活かされずに、ヨーロッパ農法との比較に関心が傾いてしまい、環境的な地力保全という面から、より身近な風土のアジア農法としてなぜ考察が深められなかったのか、という指摘です。これは、むしろ新中国が建国当初より正面から取り組んでいくことになる重要課題で、そのことについては後述いたします。

 つぎに、天野元之助氏による『斉民要術』研究について述べてみることにします。天野氏の中国古農書研究については、かつて私は論文「天野元之助と中国古農書研究」(『日本経済史研究所開所七〇周年記念論文集・経済史再考』思文閣出版、二〇〇三年所収)を著しておりますので、詳細についてはそちらを参照していただきたいのですが、周知のように、天野氏は満鉄調査部勤務時代の末期の一九四三年にレッド・パージを被り、調査局を追われる身となりました。そして半ば身柄を拘束されながら大連の満鉄図書館で中国古農書研究に沈潜する生活を送るようになったのです。

戦後、天野氏は中国での留用期間を経て一九四八年五月に引き揚げてこられ、その年の秋に京都大学人文科学研究所講師となり、中国科技史研究班で『斉民要術』の輪読に従事することになります。班長は藪内清教授で、メンバーは天野氏のほかに、渡邊幸三(本草学)、大島利一(中国古代史)、篠田統(食物史)、北村四郎(植物学、栽培植物学)、吉田光邦(科学技術史)、入矢義高(中国文学)、米田賢次郎(中国農業史)などの諸氏で、とくに米田氏は京大の史学科を卒業後、同大学の農学部で柏祐賢教授の指導を受けた異色の研究者で、東洋史畑出身で最も深く『斉民要術』(とくに本書中の輪作体系)を研究された方です。その成果は『中国古代農業技術史研究』(東洋史研究叢刊之四十三、同朋舎、一九八九年)に集大成されております。また天野氏にとっても、この『斉民要術』研究は中国古農書研究の総決算でもあり、晩年に至りようやく論文「後魏の賈思勰『斉民要術』の研究」(京大人文研報告書『中国の科学と科学者』一九七八年所収)を完成するのです。しかし、京大人文研での『斉民要術』輪読会での訳注作業は、ついに一冊の書物になることはありませんでした。ただし、輪読会のたびに作成されたワラ半紙にガリ版刷りの草稿は残されております。班員などに配布された内部印刷物だったので、この草稿の存在を知る方はほとんどおりません。ところがある時、私が所属する東海大学の先輩教授宮川尚志先生(専門は中国宗教史、京都在住時代に輪読会に出席、二〇〇六年逝去)が私の研究室を訪れ、「雑物を整理していたら、こんなものが出てきたから君にあげよう」と言って、その草稿の束をくださったのです。それには巻五、六、十を除いて全ての巻が揃っており、たぶん輪読会では『斉民要術』の全巻を読破したのではなかったと考えられます。

(なお、中国大陸における西山、熊代、天野氏らの農書研究をめぐる詳細な動向については、最近、田島俊雄氏が以下の論考を発表されたので参照していただきたい。「農業農村調査の系譜―北京大学農村経済研究所と『斉民要術』研究―」、末廣昭責任編集『岩波講座・「帝国」日本の学知』第六巻、岩波書店、二〇〇六年所収)。

そのほかに戦後における『斉民要術』に関わる研究で注目すべきは、一連の秦漢農学の研究を踏まえた当該書中の稲作記事の研究、とくに「火耕水耨」論争の問題点を丹念に整理された西嶋定生氏の研究です。西嶋氏は授業のテキストとしてこの『斉民要術』を用い講読していたことがあり、私はそのことを受講生であった尾形勇、桜井由躬雄両氏から教えられました。なお西嶋氏の中国古代農学の諸論文は、そのほとんどが大著『中国経済史研究』(東京大学出版会、一九六六年)に収められています。

西嶋氏より後の世代では、一九七〇年代に京都大学の東洋史専攻の若手研究者たち(渡辺信一郎、大澤正昭、鳥居一康、宮沢知之、足立啓二、吉田浤一の諸氏)が独自に中国古農書研究を行っておりました。彼らが刊行した『中国史像の再構成―国家と農民―』(文理閣、一九八三年)の序文に、「われわれは、京都大学東洋史研究室で自主的に行われていた農書研究会などを基礎にして、一九七五年秋から自然発生的な共同研究を開始していた」と記されており、やがて彼らは中国王朝専制支配の基底を支えてきた小農民経営―小経営生産様式論へと関心が発展していくのですが、古農書研究の中から生まれた渡辺氏の論文「漢六朝期における大土地所有と経営(上・下)」(『東洋史研究』第三三巻第一、二号、一九七四年)は、『斉民要術』を精緻に分析した高論で深く私の印象に残っております。また大澤氏はその後も引き続き中国古農書研究に精進され、『陳旉農書』(『陳旉農書の研究―一二世紀東アジア稲作の到達点―』農文協、一九九三年)や『王禎農書』(「王禎『農桑通訣』試釈(付索引)―「鋤治篇第七」を例として―」、『上智史学』第四三号、一九九八年)についての詳細な訳注を完成させております。

 近年における『斉民要術』についての大きな収穫は、田中静一、小島麗逸、太田泰弘三氏の編集で本書の新全訳『『斉民要術』―現存する最古の料理書―』(雄山閣、一九九七年)が刊行されたことです。副題に「現存する最古の料理書」と付したのは、『斉民要術』の内容全体から考えるといささか相応しくないのですが、翻訳者が「中国古代食文化研究会」のメンバー(前記の三名のほかに以下の方がたがおられる。石毛直道、中村璋八、鴇田文三郎、西澤治彦、小崎道雄、佐藤達全の諸氏)であり、またその活動を支援したのが(財)味の素食の文化センターであったからです。この新訳が完成したことを記念して、一九九七年十月九日、味の素本社ビルで記念シンポジウムが開催されました。テーマは「『斉民要術』の世界と現代食文化―古代中国に見る「食」の源流―」で、私も招待を受けて会場で新訳を購入し、分担訳をした諸氏の報告を拝聴いたしました。このシンポジウムと新訳を通して、『斉民要術』研究の前進を感じ取ることができました。

新訳は西山・熊代訳の厳格な本文校訂の面で及ばない点もありますが、分担訳を担当した鴇田氏はチーズ研究の専門家で、また小崎氏は農芸化学および醗酵食品学研究の第一人者なので、『斉民要術』中の醗酵化学に関する解釈は面目を一新いたしました。かつて、この方面で参照すべき主要文献は山崎百治著『東亜醗酵化学論攷』(第一出版株式会社、一九四五年刊。本書の学術的価値については、弟子の坂口謹一郎氏が随筆「戦禍にあった名著『東亜醗酵化学論攷』」を丸善のPR誌『学燈』第六八巻第七号、一九七一年に寄せている)に限られておりました。科技史に関係する漢籍の読解は、中国史を専門にする研究者にとってもハードルが高いばかりでなく、ましてや実験室で仕事に明け暮れる科学者にとっては縁の薄い世界かもしれません。そのことが『斉民要術』のかなりの部分の読解を遅らせてきたのです。たとえば、『斉民要術』中に酒の醸造の際に、醗酵を促進させる植物の作用を呪術的に説明する文章があります。これは醸造学を研究する専門家にとっては、本書が纏っている当時の伝統的文化という衣裳を解いてあげるならば、化学的に分析し、実験することによって再現することができ、なんら神秘的なことではないのです。あるとき私は浙江省杭州市で開かれた国際科学史学会で、醸造の専門家菅間誠之助氏(元東京国税局鑑定官室長、著書に『ワイン用語辞典』平凡社ライブラリー、一九八九年刊がある)とご一緒したことがあり、会期中にずっと中国酒の醸造技術の特徴や問題点についての個人講義を受け、大いに蒙を啓くことができました。また、『斉民要術』もよく活用され、東アジア全域の酒造技術や酒のスターター(醗酵誘発剤)について調査してこられた吉田集而氏(国立民族学博物館教授、京大薬学部製薬化学科卒)は、醸造の現場を熟知され、そこから漢籍に立ち戻ることができる数少ない研究者でしたが、残念ながら二〇〇四年に病没されました。

 新訳では巻十の「五穀、果蓏、菜茹非中国物産者」を訳出しておりますが、この巻の訳には多くの誤りがあり、植物学の専門家の協力が必要であったかもしれません。その問題点については、私は本書の書評で指摘しておきましたので、そちらを参照してください(雑誌『経済史研究』第二号、一九九八年)。この『斉民要術』巻十は、先に述べたように実に厄介な巻です。後漢末から出現してくる博物学的著作、たとえば『異物志』『広志』『南方草物状』『臨海異物志』などからの記事が多く引用され、それぞれの著作の記事が直接の見聞なのか、あるいは伝聞に基づくものなのか、また単独の著者による記述なのか、あるいは孫引きなのか判然とせず、さらには『南方草物状』については、別個に伝承されている『南方草木状』との関係から古来より問題とされてきました。

この空隙を埋めてくれた研究者が小林清市氏(一九四九~九七)でした。仄聞によると、彼の実家の職業が造園業であった関係から京大農学部林学科に学び、卒業後一時期会社勤めをし、それから京大に入り直して中国哲学に転じた異色の研究者です。私が彼を知るようになったのは、京大人文研の科技史研究班(班長は田中淡教授)主催の「王禎『農書』会読」においてで、彼は一貫して博物学に関心を懐き、ひまさえあれば賀茂川べりにある京都府立植物園を散策し、自然観察を行うといった趣味の持ち主でした。彼が最も関心を注いでいた書物には三つあります。第一は『斉民要術』(修士論文の題目は「虫から見た『斉民要術』」)、第二は『南方草木状』、そして第三は清代の碩学郝懿行(一七五七~一八二五)の『爾雅義疏』です。郝懿行は学問ばかりでなく、生物の生態を精密に観察した記録(『蜂衙小記』『燕子春秋』『記海錯』など)を残しており、その素養が『爾雅』の注疏に反映していたからです。しかし、小林氏は業半ばで鬼籍に入られ、逝去後に遺稿集『中国博物学の世界―『南方草木状』『斉民要術』を中心に―』(農文協、二〇〇三年)が刊行されたことによって、この不世出の研究者の業績が世に知られるようになったのです。私は小林清市氏のことを現代に出現した郝懿行だと思っております。

以上が日本における『斉民要術』研究の概略史です。

 

 b.中国における『斉民要術』の研究

 一九四九年の新中国の誕生以後、中国政府は古農書などの伝統的文化遺産を再点検し、これを利用する政策方針を打ち出しました。ことに解放前より農業史研究遺産を多く擁する南京農学院(現、南京農業大学)には、解放後に中国農業科学院中国農業遺産研究室が併設され、万国鼎氏が中心となって研究生や学生を動員し、古農書の収集、および方志(地方誌)資料中の農業記事や物産記事の摘録に努めました。方志の摘録記事は原稿用紙にペン書きされ、きちんと製本されて書庫に配架されております。当時、中国は一方ではソ連や東欧諸国から技術的援助を多く受けておりましたが、他方では自国の農業の改良面で古農書などの伝統文化からも学ぶべき点があれば、これに学ぼうという姿勢を採用しておりました。生前に農業文化史研究者の飯沼二郎氏は、このような中国政府の方針を高く評価しておりました。

 一九八七年、私は在外研究員として上海の復旦大学に滞在していたとき、多くの農業研究機関を歴訪し、この農業遺産研究室にも足をとどめ以下の研究者と面晤する機会を得ました(カッコ内は当時の年齢、身分、専門分野・著書などを示す)。

  李長年(七五歳、研究員、中国農業史、『斉民要術研究』という優れた先駆的研究あり。蒲松齢の『農桑経』の校注)

  繆啓愉(七七歳、教授、『四時纂要』『斉民要術校釈』など多くの中国古農書の研究あり―詳しくは後述する)

  鄒介正(六七歳、研究員、中国獣医史、『抱犢集校注』『牛医金鑑』などの獣医書の校注)

  章楷(七一歳、副研究員、中国養蚕史、『中国古代養蚕技術史料選編』『中国古代農具』『植棉史話』『中国古代栽桑技術史研究』等の編著あり、著名な思想家章炳麟のご子息)

  葉依能(五一歳、副研究員、室副主任、農業遺産研究室で刊行している雑誌『中国農史』の主編)

  郭文韜(五七歳、副研究員、中国農業科技史、当時東北地方から転任―後に私は郭氏の著書を二冊翻訳することになる)

  葉静淵(六一歳、副研究員、中国園芸史)

  曹隆恭(五四歳、副研究員、中国農業科技史)

王達(五九歳、副研究員、中国農業経済史、故陳恒力氏とともに『補農書校釈』を著し、その舞台となった太湖周辺地区の農村を調査)

朱自振(五二歳、副研究員、中国茶業史、陳祖●氏との共編の『中国茶業歴史資料選輯』の大著あり)

張芳(四五歳、助理研究員、中国水利史)

曹幸穂(三五歳、博士研究生、農村経済史―現在は北京の中国農業博物館の要職に就任)

 この中で、李長年、繆啓愉両氏が『斉民要術』の研究を行っております。李氏は解放前に米国のウィスコンシン大学に留学した経歴があったために、文革中にひどい弾圧を被り、所蔵の洋書は焚却されてしまったと聞いております。李氏の『斉民要術研究』(農業出版社、北京、一九五九年刊、B6判、全一三二頁)は文革前の著作で、たぶん解放後最初の『斉民要術』に関する学術的な概説書だと思われます。この著書には農史研究者たちの現地調査の成果が盛り込まれており、その序文に次のように記されています。「桑潤生と王達両氏は、かつて『斉民要術』中の技術問題の解明のために、山東、山西、河南、河北などの地へ出かけ、実地調査を進めた。彼らは随時資料を送ってくれ、大いに協力してくれた」。王達氏については前掲の研究者リストに記してあるように、明末清初の浙江桐郷の地主張履祥(一六一一~七四、敬称は楊園先生)が著した『補農書』の内容を検証すべく現地調査し、その詳細な報告書『補農書研究』(中華書局、一九五八年刊、A5判、全三三四頁)の整理に関与された方です。また桑潤生氏(一九三〇年生まれ、浙江上虞の出身)は上海農学院で教鞭を執っていた関係で、当時上海に在住しておられ、復旦大学滞在中に歴史系の呉教授の計らいで面識を得ることができました。ただし、そのとき私は桑氏が解放直後に農村調査に従事していたことなどは知らずにおり、二〇〇六年に研究休暇で上海の同済大学逗留中に宝山区のご自宅に招待され、そこではじめて桑氏の口から直接に農村調査の事実を教えられました。その頃を回想した小文が叢林というペンネームで雑誌『農業考古』に掲載されているとのことでした。

 このような断片的な情報から判断すると、解放後に開始された古農書などの農業遺産の見直しは、単に農業文献の整理や校訂についてのみ実施されたのではなく、その背景となる農村にまで足を運び、記録中の事実を検証すべく実地調査がなされていたのです。前述の『補農書研究』は周到に調査がなされたことを示す非常に優れた報告書で、明末清初の太湖周辺の農村経済の実態を如実に教えてくれます。ことに単位面積当たりの生産高の算出は、その土地ならではの度量衡慣行があり、現地調査なくして文献の解読はあり得ません。

 つぎに繆啓愉氏の『斉民要術』研究ですが、その前に古農書などの農業遺産を研究する計画が中央の農業部の意向を受けて関係機関によって、どのような経緯で立案されたのか述べてみたいと思います。これについて、私は関係文書があるはずであると想定し、南京農業大学訪問を契機に親交を結ぶようになった曹幸穂氏に直接尋ねてみたところ、確かに有るという回答を得ました。その文書は最近刊行された『万国鼎文集』(王永厚責任編集、中国農業科学技術出版社、北京、二〇〇五年刊)に収められ、初めて全容を知ることができました。本書の第三篇「古農書整理与研究」中の「中国農業史整理研究計劃草案」がそれで、もとの文書は万氏の自筆原稿を謄写版印刷した内部文件で、最終修訂案は一九五四年六月二二日に作成されました。この文書の内容は以下のような構成です。

  (総説)基本情況、目的と要求、工作方針と任務、進め方と段取り、組織指導、人員配置、経費予算

  (附件一)中国農業科学史料の編集刊行のための概略説明

  (附件二)『斉民要術校釈』の編集刊行とその研究についての説明

  (附件三)『中国農業技術史』の編集刊行についての説明

 この中の附件二の文書に、『斉民要術』を研究する意義とその方法の趣旨が、次のように提案されております。『斉民要術』は祖国の農業史を研究する上での貴重な書物であるが、本書は古い時代の語彙や方言が多く含まれ、通常の農学を修めた人びとにとってでさえ難解であるので、①校勘、②注釈、③版本の系統調査、④引用されている書物の研究を行って、⑤『斉民要術』中の農業技術水準、およびその源流と影響とを明らかにしなければならない。

 このようにして、南京農学院(つまり南京農業大学)併設の農業遺産研究室と陝西省楊陵(陵は陵墓の意味を持つので、近年「楊凌」と地名表記を変更)の西北農学院(現、西北農林科技大学)の古農学研究室とが相互に連絡を取り合って、それぞれ校釈作業を行い、それを持ち寄って信頼のおける『斉民要術』の校釈テキストを作成し、利用者のための便益を図ることになったのです。前者の責任者は万国鼎氏で、一九六三年に万氏が没するとその仕事は繆啓愉氏(一九一〇~二〇〇三)によって引き継がれます。そして後者の責任者は石声漢氏でした。

 繆啓愉氏には研究業績として、中国古農書『四民月令』『四時纂要』『農桑輯要』『王禎農書』などの綿密な校釈著作があるのですが、その学歴や職歴などの経歴についてはよく知りませんでした。二〇〇〇年に北京の農業博物館隣りの中国農業出版社売店で、中国科学技術協会編『中国科学技術専家伝略(農学篇・綜合巻二)』(中国農業出版社、一九九九年)を購入し、本書を通じて初めて繆氏の略歴を知ることができました。これによると、繆氏は農業史研究が専門ではなく、地政学が専門でした。解放以前の民国時代には、貴州、四川、広西、浙江などの省財政庁下で、農村各地の土地調査や地政管理資料の作成に従事し、解放後の一九五七年になって、万国鼎氏の推挙で農業遺産研究室に転任し、『斉民要術』の研究に着手いたします。しかし、文革中は弾圧を被り原籍地(繆氏の生地は浙江省義烏市)に下放され、労働改造に従事させられました。繆氏はこの下放中にも『斉民要術』の精読と校訂作業を継続され、やがて文革が終息し名誉回復が成ると、さらに精進を重ね、中国農書叢刊綜合之部の一冊として『斉民要術校釈』(農業出版社、初版、一九八二年。第二版、一九九八年)を公刊するのです。繆啓愉氏の著作には、しばしば共編者、参校者(校訂者)として繆桂龍氏の名前が連記されております。この繆桂龍氏は繆啓愉氏のご長男で、当時、南京農業大学附属図書館の司書をしておられ、八七年の当大学訪問時に私はご自宅に招かれ、黒ビールと南京名物の塩水(イエンシュイ)(ヤー)(アヒルの塩煮)をご馳走になった覚えがあります。

 さて、『斉民要術校釈』の仕事を一段落させると、つぎに繆啓愉氏が着手したのは、その現代中国語訳でした。これも生前にすべて完成され、逝去後の二〇〇六年に『斉民要術訳注』という書名で上海古籍出版社より刊行されました。本書は繆父子の共著という形を採用しております。本書の刊行によって、一九五四年に計画された農業遺産『斉民要術』についての研究作業が完了したのです。実に半世紀にわたる歳月を要したわけです。繆啓愉氏の『斉民要術校釈』の優れた点は、語彙の典拠や文字の音韻学的説明、それに各種の事物の解説が厳正であることです。『斉民要術』中の語彙は専門家が「古奧」(古風で奥深く難解)と形容するように、その読解は一筋縄ではいきません。近年では、言語学者汪維輝氏による専門の研究書『《斉民要術》詞語法研究』(上海教育出版社、二〇〇七年)が刊行されたので、情況はいくぶん改善されました。

 他方、石声漢氏の『斉民要術』の研究作業は順調に進行していきました。この作業のために、王毓瑚氏の計らいで北京農学院(現、中国農業大学)附属図書館所蔵の関係書籍が古農学研究室へ貸し出され、また日本側からの金澤文庫本鈔本影印本の寄贈、および西山、熊代、天野三氏との学術交流なども、この研究作業の進捗のために大いに貢献いたしました。そして石氏の訳注書『斉民要術今釈』(以下『今釈』と略称)は、西北農学院古農学研究室叢書として四分冊の形で、一九五七年から五八年にかけて北京の科学出版社から刊行されるに至ったのです。途中、中間報告を兼ねた啓蒙書『従斉民要術看中国古代的農業科学知識(斉民要術から見た中国古代の農業科学知識)』(科学出版社、A5判、全八七頁、一九五七年刊)を出版しております。

ところで、『今釈』の刊行のために、古農学研究室の康成懿、姜義安の両氏が草稿の整理の助手を務めました。一九八七年の夏、私はこの古農学研究室を訪問し、大学の招待所(宿舎)に滞在中に、姜義安氏が私を訪ねて来られ、石氏の助手を務めるようになった経緯を教えてくれました。彼の話によると、姜氏をこの研究室勤務に推薦したのは、中国史学の泰斗顧頡剛氏(一八九三~一九八〇。古典批判研究誌『古史弁』の主編、中華書局評点本『史記』の著者)で、姜氏の母親の姉が顧頡剛氏の夫人であった関係からでした。

石氏の学風は、中国の伝統的な考証学、文献学に近代的な生物学の成果を加味した独特のものです。青年時代に共に学んだ羅士韋氏(中国科学院上海植物生理研究所研究員)は、石氏について以下のように回想しております(『石声漢教授紀念集』一九八八年より)。

  私と声漢とは一九二四年に長沙の試験会場で互いに面識を得るようになり、後にともに武昌で学ぶことになった。彼はひどい結核を病み、蛇山にある療養所で一人住まいをしていた。しかし、彼との付き合いは親密で、休日にはよく連れ立って洪山に植物標本の採集に出かけた。私が多少なりとも植物のことを知っているのは、みな声漢が教えてくれたお陰である。声漢こそは私の友であり師でもある。また声漢は博覧強記でもって知られ、書に巧みで、古典文学、文字学、音韻学などにも精通していた。

 その後、石氏は英国の著名な植物生理学者ブラックマン(Frederick Frost Blackman、一八六六~一九四七、ケンブリッヂ大学教授)の指導の下で博士号を取得するのです。したがって、彼の『今釈』のスタイルはいかにも科学者らしく合理的で、『斉民要術』の各巻の各節および各原文に、算用数字でもって整理番号を付し、それに対応させて現代中国語訳、校記、注解を施すといったまとめ方をしております。また、第一分冊の著者前言中に、本書は「初稿」であって「定稿」ではないと断わっておりますが、完成度の非常に高い全訳注本です。なお、この『今釈』は今年(二〇〇九年)に上下二冊本で中華書局より再版が刊行されました。

 繆啓愉、石声漢両氏以外にも、農史研究者の梁家勉、胡道静、游修齢などの諸氏による『斉民要術』研究がありますが、ここでは省略いたします。

 

 c.ヨーロッパにおける『斉民要術』の研究

 ヨーロッパにおいて中国古農書を研究している研究者は数えるほどしかおりません。私が直接に存じ上げているのは、以下の三名の研究者です。

 第一は、ドイツのボーフム大学東アジア研究所のクリスティーネ・ヘルツァー女史(Dr.Christine Herzer)で、彼女を紹介してくださったのは熊代幸雄氏でした。彼女の研究業績中には崔寔『四民月令』のドイツ語訳(Das Szu-Min Yueh-Ling des Ts’ui Shih,Ein Bauern-Kalender aus der Spateren Han-Zeit,1963)があり、私も本書を彼女から贈られましたが、逸文でのみ残存する当該書の輯本作成作業をよくこなし、非常に優れた翻訳だと思いました。ヘルツァー女史に『斉民要術』のドイツ語訳の計画があることについては、熊代氏の著書『比較農法論』(御茶の水書房、一九七〇年)に

   斉民要術のドイツ語訳の企てがあることを一九六七年一一月四日ハンブルグ大学中国文化研究室W・フランケ教授を訪ねたとき紹介された。その任に当たっているC・ヘルツァー女史が、一九六八年たまたまアジア経済研究所に来修された機会に、同所、小島麗逸、戴国煇、川村嘉夫氏たちや、われわれ同学とも修交を深め、日中欧間の交流が始められている。(五〇〇頁)

と記されております。このドイツ語訳がどの程度まで進行したのかについては熟知しておりません。

 第二は、イギリスのフランチェスカ・ブレイ女史(Francesca Bray、漢語名は白馥蘭、カリフォルニア大学教授を経て、現在はエジンバラ大学教授、文化人類学担当)です。彼女はニーダム研究所で『中国の科学と文明』(原著第六巻第二分冊、一九八四年刊)の農業巻を執筆担当しました。この農業巻は、当初、執筆者として天野元之助氏が候補に挙げられていたと聞いておりましたが、天野氏の健康上の問題によって若い彼女に変更されたとのことです。彼女は主として東南アジアの農業生態や農耕技術の調査に従事しており、中国でのフィールドワークは文革などの政情の関係で実現展開できなかったようです。したがって、天野氏の著書『中国農業史研究』(御茶の水書房、初版、一九六二年刊。増補版、一九七九年刊)をつねに座右に置き、それにかつての農村調査報告書や中国古農書などを総動員して、農業巻を完成させたのでした。そこには『斉民要術』の記事が多く引用されております。一時期、『斉民要術』の英訳は彼女の手によって行われる予定というニュースも流れましたが、まだ実現しておりません。なお、この農業巻は古川久雄氏(元、京大東南アジア研究センター教授)が全訳しており(『中国農業史』京都大学学術出版会、二〇〇七年刊)、その書評を私が担当しましたので、あわせて参照していただきたいと思います(日本産業技術史学会会誌『技術と文明』第一六巻第一号、二〇〇九年所収)。

 ブレイ女史とは二〇〇五年に北京で開催された第二二回国際科学史会議の分科会で同席し、休息時間に歓談したところ、近年の興味はもちろん中国農業史にもあるが、中国におけるジェンダー問題に関心があるとのことでした。(彼女のこの方面の著作として、Technology and Gender, Fabrics of Power in Late Imperial China,1997.があり、本書は江湄・鄧京力によって中文訳されている。『技術与性別―晩期帝制中国的権力経緯―』江蘇人民出版社、二〇〇六年刊)。

 第三は、フランスの社会科学高等研究院(EHESS)のフランソワーズ・サバン教授(Francoise Sabban)。彼女との交流の仲介をしてくださったのは、同じ研究院の日本学の専門家ヴェアシュアー女史(Charlotte von Verschuer)でした。サバン教授は主に宋代史および中国の食文化を研究しておりますが、ヨーロッパの食文化研究にも造詣が深く、中世のレシピから実際にその料理を復原して来客を喜ばせる趣味を持っております。夫君のシルヴァーノ・セルヴェンティ氏(Silvano Serventi)もヨーロッパ文化史と食文化(とくにスロー・フード)に関心があり、ご夫妻の共通の関心テーマが以下の二冊の書物に結実しております。

  The Medieval Kitchen ; Recipes from France and Italy, 2000.

Pasta ; The Story of a Universal Food, 2002.

 また、サバン教授は古典中国語にも通暁しており、晋代の束晳の「餅賦」についての詳細な研究があり、最終的には『斉民要術』中の飲食文化に関する巻のフランス語訳を目指しておられます。近年、彼女は日仏会館の館長として来日され、滞在中に『斉民要術』の関係資料の収集に努め、さらには大規模な食文化シンポジウムを企画成功させ、大任を果たして二〇〇八年秋に帰国されました。帰国の直前に、私はご夫妻を伴って金澤文庫のある称名寺を訪れ、『斉民要術』鈔写ゆかりの地を案内して、大いに喜んでいただきました。おそらくは数年後には『斉民要術』の部分訳が刊行されることでしょう。

 

  二、図像資料と中国農業史研究

 つぎに、中国農業史研究における図像資料の活用について述べてみたいと思います。農業は土地、作物、家畜、農具、およびそれらを利用し、使いこなす人間から構成されており、具体的な農作業を現場や映像の形態で見ることができれば、だれもが容易にその実際を理解できるわけです。しかし、文字記録だけではいくつかの異なる解釈が成り立ち、なかなか意見の一致を見ないことがあります。図像資料は、そのような文献での欠陥を補完する重要な役割を果たす可能性を秘めています。

 私が図像資料に関心を懐くようになった契機は、民俗学者宮本常一先生(一九〇七~八一)が所長を務めていた日本観光文化研究所(通称「観文研」)における先生の談話からでした。この研究所は、昭和四一年(一九六六)に近畿日本ツーリスト株式会社の馬場勇副社長の英断で設立されました。設立の趣旨を『観文研二十三年のあゆみ』(一九八九年刊)から摘録すると、以下のとおりです。「観光によって国民のみなが日本や世界を見直せるようにし、そのためには一方で旅行者をリードする情報を提供していくと共に、地方の側にそれを受け入れさせる工夫を指導し、地方に自己の保全と進路決定に不可欠の自己評価能力と自信を得させることである」。この観文研の事務局に私の友人が就職した関係もあって、私は観文研創設当初からのメンバーとなり、日本各地をずいぶんと歩き回りました。

また、ここには年齢も職業もさまざまな人びとが、宮本先生の談話拝聴を楽しみに集まって来ました。とくに中世の絵巻物を材料にした談話は秀逸で人気がありました。かつて宮本先生が渋沢敬三(一八九六~一九六三、渋沢栄一の孫、常民文化研究所の創設者)邸に止宿していた頃、渋沢氏の肝煎りで絵巻物の生活絵引作成のための研究会が組織されたことがあります。その作業の手順は、まず代表的な中世の絵巻物が画家(橋浦康雄、村田泥牛画伯)の手によって模写されます。重要美術品クラスの絵巻物になると、所蔵機関は破損を危惧して貸し出しを許可しませんし、また現在のようにデジタル化処理ができませんでしたので、劣化が進んだ絵巻物は画家の眼を通して明瞭な画面に復原されます(この模写段階で模写した画家による第一段階の解釈が開始されたことになる)。ついで専門を異にするメンバーによって、模写の各場面に登場する事物や人びとの行為について、いろいろな視点から検討が加えられ、各事物に対しては当時の呼称を同定し、民具学的・民俗的考察を行い、それぞれの場面全体で何を物語っているのかの解説を行うのです。やがてこの作業は『絵巻物による日本常民生活絵引』(角川書店、初版、一九六五~六八年刊。平凡社、再版、一九八四年刊)となって結実していったのです。宮本先生がとくに気に入っておられたのは、京都の歓喜光寺所蔵の国宝『一遍上人聖絵』で、当時の生活用具(民具)、服装、水田や市場の景観、あるいは人びとのしぐさ等々までを、ご自分のフィールドワークで得た情報を踏まえて、実に詳細に解説してくださり、先生はさながら中世の世界から時空を超えて現代にやって来た「語り部」のようでした。

 私はこのような絵画資料の分析方法をとても面白いと思いました。私はこの時の先生の談話から、美術史の方法論と全く異なるこの方法を応用して、漢代の画像石や画像磚、農桑図絵の『耕織図』、および農書の挿絵などを検討してみようと思ったのでした。

 

 (1)漢代の画像墓と壁画墓などに見られる農業史資料

 漢代、とくに後漢時代は各地に中小の豪族が成長し、墓葬に経費をかけるいわゆる「厚葬の風」が流行し、多くの画像石墓や画像磚墓、あるいは両者を併用した画像磚石墓、さらには壁画墓が築造されていきます。墓の多くは一人の墓主の利用のためにだけ築造するのではなく、夫婦合葬であったり、あるいは家族墓であったりしますから、必然的に竪穴構造の土坑墓方式を採用せず、追加埋葬できるような横穴式の磚室墓あるいは崖墓方式を採用します。そして室内には図像を表現するスペースが充分に確保できるようになります。そこに死後の神話的世界、世俗の享楽的な生活情景、役人時代の生活、および農耕・漁撈・狩猟などといった日常の生産場面が表現されていくのです。

 一九八〇年代、私は宮本先生の影響の下に漢代の画像の分析に熱中し、いくつかの雑誌に寄稿した論文を、一九九一年に『画像が語る中国の古代』(平凡社、イメージ・リーディング叢書)という一冊にまとめて刊行いたしました。この作業を進めていく過程で、画像中に表現されている犂のタイプが地域によってある傾向を有することに気づきました。それは、陝西、内蒙古地方の画像石や壁画中に表現されている犂のタイプが方形枠型長直轅犂であるのに対して、山東および蘇北(淮河以北の江蘇地方北部)地方の画像石中の犂のタイプが三角枠型長直轅犂であったことです。この二つのタイプの犂が地域によって截然と区分できたのです。通常、この長直轅の枠型犂は挽畜二頭で曳かせますが、方向転換が不便で、しかも深耕には向いておりません。『斉民要術』に説かれている乾地農法での犂耕は浅耕を旨としており、画像中の犂はその農法と矛盾しないわけです。

 ところで、この地域による二つのタイプの犂の分布について例外があることを、菅野恵美氏の学位論文『中国漢代装飾墓葬の地域的研究』(二〇〇六年度学習院提出)の審査のときに教えられたのです。それは陝西省横山県孫家園子出土の犂耕画像石で、そこには一頭の牛に曳かせる無床犂もしくは短床犂に近い枠型犂が見られるのです。その作風は同じ陝北(陝西省北部)地方でありながら、影絵のような彫刻様式を採用せず、山東地方の画像石に多い図像の細部まで表現した彫刻様式を採用しているのです。このことから菅野氏は、私の犂タイプ分布説をも考慮し、孫家園子出土の画像石は、山東地方あたりからの入植者と関係が深いのではないかと推定しました。犂の伝播説は、その形態や構造の類似性を根拠にしばしば云々されますが、誰が、どのようにようにして伝えたかについては説明されません。これは非常に示唆に富む指摘でした。(漢代の犂耕画像について、私は幾篇かの関係論文を発表してきたが、最新のものは以下の論文である。「中国漢代画像石に見られる犂型の諸問題」、『(神奈川大学日本常民文化研究所論集)歴史と民俗』第二六号、二〇一〇年所収)。

 また、画像石や壁画中の犂耕図における挽畜と犂の繋駕法ですが、牛二頭を用いた長直轅犂の場合、通常、二牛の頸部に差し渡した横槓(犂衡、クビキ)から牽引力を取る「二牛抬槓方式」を採用します。また漢代では牽引支点を低くし、一定の耕深を保つのに有効な短曲轅犂はまだ考案されておりませんでしたから、一頭で曳かせる犂には、おおむね双轅方式を採用していたはずです。しかし、画像石に表現されている図像だけからの推定では限界があります。ただし、挽畜の種類は判別することができます。一般的には黄牛が用いられ、蘇北地方の犂耕画像石には水牛の使用も認められます。また奇妙なことに、黄牛と馬(あるいはラバ)を挽畜に併用している事例が複数見られます。当初、私はこのような犂耕慣行を深く気にも留めませんでしたが、それが現代にまで続いている慣行であることに気づき、後世の事例をも収集し、「漢代牛馬挽犂画像石考」(福井重雅先生古稀・退職記念論集『古代東アジアの社会と文化』汲古書院、二〇〇七年刊所収)という論文を発表しました。牽引力点の位置の異なる家畜を併用するのは、世界の犂耕の歴史において極めて類例のないことなのです。

 ところで、西南中国の四川省、重慶直轄市、雲南省などには多くの漢代の画像磚墓や崖墓が分布し、そこから農耕文化に関する画像磚や陂塘稲田模型が出土いたしますが、不思議なことに犂耕の存在を示す文物は出土いたしません。その代わり、一種の踏鋤である鉄鍤の実物(「蜀郡」鉄官のロゴマーク入り)と鍤を所持した明器の「持鍤俑」が多く出土いたします。また『後漢書』には地方官がヴェトナムに犂を伝えた記事が見られ、さらに諸葛亮の南征を記した『三国志』「蜀書」や『華陽国志』の記事には「耕牛」という語彙が見られますが、「耕牛」が即「犂耕」を示すかどうかは判断しかねます。というのは西南中国地方からインドシナ半島および島嶼部にかけて水田耕作の慣行として「踏耕」があるからです。結局、考古資料および文献史料を総合的に判断すると、漢代の西南中国においては、犂耕は普及していなかったと判断できます。

 それから一種の明器である陂塘稲田模型ですが、これは秦嶺以南の西南中国における入植漢人あるいはその末裔、および漢人の文化の影響を色濃く受けた土着人の墓葬から出土いたします(広東デルタおよびその周辺地帯からも「犂田・耙田模型」が出土するが、西南中国と比べると出現時期にタイムラグがある。この文物については後述する)。一九八七年の訪中以後、私はこの陂塘稲田関係資料を丹念に記録し、そのリストを作成したことがあります(「漢代陂塘稲田模型明器および関連画像資料集成」、古川久雄・渡部編『中国先史・古代農耕関係資料集成』京大東南アジア研究センター、一九九三年所収)。また地球環境学研究所の佐藤洋一郎氏プロジェクトでの報告書に関連論文一篇を寄稿して、この文物研究に一応の結論を出しました(「水田稲作の原風景と多様性―中国古代の出土文物から―」、佐藤洋一郎監修、鞍田崇編『ユーラシア農耕史』第五巻、臨川書店、二〇一〇年刊所収)。結局、このような明器の陂塘稲田模型制作の目的は、西南中国に移住した漢人やその末裔たちの文明的象徴物であり、死後の世界においても充分な食糧を保障する証しだったのではないでしょうか。なお、近年では愛媛大学の佐々木正治氏(専門は中国考古学)が科研費を取得し、この陂塘稲田模型を精力的に調査しております。    

 

 (2)農桑図絵『耕織図』の研究

 漢代の画像研究とほぼ時を同じくして私が着手したのは、農桑図絵の『耕織図』の研究でした。通常、この『耕織図』は稲作図と養蚕織絹図から構成され、南宋時代の楼璹(ろうしゅう)(一〇九〇~一一六二)によって描かれたものが有名です。しかし、すでにそれ以前の五代後周の世宗(在位、九五四~五九)のときに、禁中に木彫の耕夫・織婦像が飾られ、また北宋の仁宗(在位、一〇二二~六三)のときに、延春閣の壁面に『耕織図』が描かれた前例がありますから、楼璹の創作にかかるものではないのです。中国には古くより「男耕女織」という性差による生産労働分業観があり、それを政治理念の柱としたのが農本主義なのです。したがって皇帝が「藉田之礼」を、また皇后が「親蚕之礼」をそれぞれ実演するのは、この儀礼を行うことによって、農本主義を自ら体現し民の労苦を知ることに繋がるのです。また『耕織図』を宮中に架蔵して皇族の子女教育のための鑑戒画に供したのも、同様の趣旨から発しております。

 『耕織図』の系譜は実に複雑で、またその流布も東アジアの朝鮮や日本ばかりでなく、遠くヨーロッパまで及んでおります。そして重要な『耕織図』資料の大半が海外に流出しているのが現状です。また、この種の絵画資料に対して、歴史研究者と美術史研究者との間での意思疎通はあまり良好ではなく、その書誌学的系統は未解明でした。ただし、台湾大学歴史系の農業史研究者趙雅書教授だけは、この方面の資料を中国、韓国、日本、米国にまたがって着実に調査され、最も多くの情報を収集しておられました。というのは、趙教授の夫人が元台湾故宮博物院の学芸員で、現在シアトルに在住し、趙教授は一年の半分を台湾で、そしてもう半分を米国で暮らすというライフスタイルをとっており、そうした関係で海外に流出した絵画資料を調べ易い立場にあったからです。後に私は、古くからの友人で台湾大学に奉職している陳明玉教授を介して趙教授と研究交流を持つようになり、台大の彼の研究室でフリーア美術館(Freer Gallery of Art)所蔵の元・程棨『耕織図』の見事なカラー・コピーを拝見しました。また彼の計らいによって、台湾故宮博物院の地下収蔵庫で清代の画家陳枚と冷枚の『耕織図』(どちらも焦秉貞の『御製耕織図』の)を熟覧することができたのです。

 私は『耕織図』研究のために、昭和六〇・六一(一九八六・八七)年度の科研費を取得し、国内では博物館、美術館、郷土資料館、寺院などに所蔵されている関係資料を調べ回りました。また米国内所蔵の資料については、フリーア美術館やクリーヴランド美術館(Cleveland Museum of Art)に複写提供申請書を提出し、台湾故宮博物院所蔵の資料については前述の趙雅書教授の協力を得、韓国所蔵の資料については、漢陽大学の李盛雨教授(韓国で最も優れた食文化研究者)に関係資料の提供を依頼しました。このようにして多くの方がたの協力によって以下のことが判明したのです。

第一は、現存する『耕織図』のほとんどが南宋の〈楼璹画〉(楼璹が臨安府於潜県令のときに描かれた)、もしくは清代康熙朝の〈焦秉貞画〉(いわゆる『康熙帝御製耕織図』、『佩文斎耕織図』とも称し、西洋の遠近法を採用している。焦秉貞は画家であり天文官でもあった)のいずれかを祖本としていること(その詳細な書誌学的系統については、以下の私の報告書を参照のこと。「中国農書『耕織図』の流伝とその影響について」、『東海大学紀要文学部』第四六輯、一九八六年所収)。第二は、わが国では室町期以後に中国より宋画系統の梁楷画本、および明代の天順六年(一四六二)に江西按察僉事の宋宗魯による覆宋刊本が伝わり、狩野派の画手本、いわゆる「粉本」に採用されたこと。とくに狩野永納(一六三一~九七)による宋宗魯本の覆刻は、狩野派のみならず同流派以外の画家たちにも大きな影響を及ぼしました。第三は、わが国では『耕織図』の「耕図」が「四季耕作図」として独立し、屏風絵や襖絵、さらには絵馬のモチーフとして盛んに描かれたこと。第四は、焦秉貞画系統もわが国に伝来し、第三のような利用のされ方をしましたが、中国では外銷画(貿易画。画冊〔アルバム〕や壁紙)として広東からヨーロッパに輸出され、かの地の中国趣味熱(シノアズリー、chinoiserie)を大いに刺激したことです。

 この『耕織図』研究を通して、もう一つ極めて重要なことに気づきました。それは、このような生産技術に深く関係する絵画資料を、どのように研究するかについての方法論上の問題です。通常、漢籍テキストの場合、各種の版本などを照合して、定本を作成するための校勘学が確立しておりますが、この種の絵画資料についても同様の校勘が必要であるということです。このことを私に気づかせてくれたのは、神奈川県平塚市博物館に展示されていた一幅の「四季耕作図」(雲霽陳人筆、大磯町守屋氏所蔵)パネルでした。この絵は富士山を背景にして、浸種、犂耕から収穫、脱穀、俵詰めに至るまでの稲作工程が描かれ、一見すると当地大磯の農業慣行を表しているかのように思われますが、実はそうではなく中国の『耕織図』を本にして出来た粉本からの応用画で、描かれている内容にかなりのウソが混入していると、私は判断いたしました。その後、同博物館学芸員の小川直之氏がこの絵の内容について民俗実地調査を行い、そのことを立証いたしました。また多くの「四季耕作図」中の農具の描写に常識を疑わせるような誤りがあるのは、画家にその方面の知識が欠如していたからです。この類の「四季耕作図」は徹底した粉本主義のもとに制作されましたから、その粉本が何か、その内容とどこが異なるのか、描いた画家が土地の人かあるいは外部の人かを調べ、そしてその土地の農業慣行でもって検証する必要があるのです。また、画家に支払った画料、あるいは逗留中の画家に対する接待の程度まで判明したならば、画中に登場する人物数の多寡や描写の精粗の違いが生ずる理由の説明ともなります。そうした絵の校勘を経た後に、初めて「四季耕作図」を郷土史資料に供することができるのです。

 私はこの絵画資料の研究方法を小論文にまとめ、「『耕織図』流伝考―「四季耕作図」の絵解きのために―」と題して神奈川大学常民文化研究所編集発行の雑誌『民具マンスリー』(第一九巻第一二号、一九八七年)に寄稿したところ、この関係資料を所蔵する神奈川県下の博物館や郷土資料館の学芸員の方がたが大いに興味を示してくれました。これを契機に「絵画資料を読む会」が結成され、所蔵館持ち回りで関係資料の熟覧検討がなされるに至ったのです。また地方のいくつかの博物館によって「四季耕作図展」が開催され、これらの動きが呼び水となって、新資料が次つぎに発見されていきました。とくに神奈川県厚木市郷土資料館が購入した朝鮮本『耕織図』図冊は、狩野永納覆明版本を考証する上での重要な新資料でした(その資料的価値については、以下の私の論文を参照のこと。「明・宋宗魯本『耕織図』の書誌学的考察」、『東海大学紀要文学部』第八九輯、二〇〇八年所収)。

 一連の『耕織図』の研究は、次つぎと私のために新しい研究の扉を開いてくれました。一九九五年には前述のフランスEHESSのヴェアシュアー女史が、シノアズリー関係の外銷画『耕織図』壁紙の調査に誘ってくれました。まずは南仏エクサン・プロヴァンス地方の二軒の素封家を、ついでドイツのデュセルドルフ郊外の古城(マリア・テレジアの父が彼女に与えた城)をそれぞれ訪れ、短時間でしたが大急ぎで脚立を使用して壁紙すべての撮影と計測を行いました。このような調査を通じて、私は初めてヨーロッパにおけるシノアズリーの雰囲気を味わったのでした(その調査成果は、ギメー美術館の機関誌Arts Asiatiques, Tome 51-1996〔共同執筆〕、および京大人文研編『中国技術史の研究』一九九八年刊に掲載)。その後、一九九九年には、同じEHESSのサバン教授が客員教授として私を招聘してくれ、この機会を利用して英国ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館(Victoria and Albert Museum)所蔵の膨大な中国外銷画中の一部を熟覧いたしました。この中には陶瓷器製造工程図、製茶工程図、各種職人図、花卉園芸植物図等々、中国の前近代技術史や博物学関係資料が極めて多く含まれております。近年、その一部が中国に里帰りし広東省博物館で展覧されたと聞いております。(私が広州とパリで調査した外銷画小報告として以下のものがある。「清代産業技術「外銷画」調査覚書」、『民具マンスリー』第二九巻第一二号、一九九七年所収)。

 また韓国に伝わる『耕織図』資料についても気になっていたところ、二〇〇二年にソウルの国立中央博物館で大規模な「朝鮮時代風俗画展」が開催されました。このニュースを真っ先に教えてくれたのは済州大学校の高光敏教授で、さらには立派な展覧会カタログまでを送ってくださいました。カタログ中には、「佩文斎耕織図」(いわゆる焦秉貞画「御製耕織図」)や「楼璹耕織図」を含めて七種類の『耕織図』資料が掲載されておりました。紙本着彩の「楼璹耕織図」(一八世紀)は、挿秧と餵蚕の二場面のみの掲載ですが、それぞれの上部に楼璹の詩、下部に絵が配置されており、その絵の構図は厚木市郷土資料館所蔵の朝鮮本に酷似しております。機会があれば熟覧してみたい資料です。

 さらに二〇〇七年には、一面識もない一人の女性から突然連絡があり、日本での『耕織図』調査の協力要請とともに、驚くべきニュースを知らせてきました。彼女の名前はシャルミット・ベジャラーノ(Shalmit Bejarano)といい、ピッツバーグ大学大学院の芸術・建築史専攻科の院生で、彼女がもたらしたのは、ニューヨークのメトロポリタン美術館(Metropolitan Museum)が、香港のオークションを通して元朝時代の『耕織図』巻子本残巻を購入したというニュースでした。やがて彼女は私の研究室に現れ、携帯したパソコンを開いてその画像を見せてくれました。それは元の程棨本と同様に楼璹の詩の後に絵が交互に配され、みごとな絹本着彩の残巻でした。巻末に綴合された「叙」には「至正癸巳二月中澣、忽哥赤叙」とありました。至正癸巳は元・順宗の至正一三年(一三五三)に当たり、忽哥赤というモンゴル人の経歴については皆目分からないので、今後調べてみる必要があります。 

この『耕織図』関係資料の多彩な広がりは、今後、新資料の発見も期待できるので、まだまだ続きそうです。ただし、このような絵画資料の研究には、図版を掲載する際に、もちろん所蔵者の許可を必要といたしますが、その外にもいろいろな制約があり、ある寺院での四季耕作図襖絵の撮影には、一枚の撮影単価として五千円を請求され、図版使用後はすべてのネガを寺に寄贈することを誓約させられました。このように絵画資料の研究には、文献だけによる研究とは異なる苦労が伴っているのです。

〔補記〕『耕織図』の総合的な図録に関しては、現時点、北京の農業博物館が編集した図録、王紅誼主編『中国古代耕織図』(上下冊、紅旗出版社、北京、二〇〇九年刊)が最もよく関係資料を収録しており、図版も鮮明である。本書を実質的に編集したのは、北京大学図書館学科出身の肖克之副主編である。彼の主著に『農業古籍版本叢談』(中国農業出版社、北京、二〇〇七年刊)がある。またわが国の「四季耕作図」に関しては、神奈川大学の河野通明氏が精力的に資料収集に努めている。その著書に以下のものがある。『瑞穂の国・日本―四季耕作図の世界―』(共著、淡交社、京都、一九九六年刊)、および神奈川大学日本常民文化研究所論集『歴史と民俗』第一八号(二〇〇二年刊)所収の常民文化講座特集「絵画資料と民具研究―四季耕作図研究の現段階と可能性―」。

 

 (3)元・王禎『農書』中の「農器図譜」の研究

 『耕織図』の研究は、必然的に私を元の王禎によって著された『農書』研究に向かわせました。この農書は「農桑通訣」「百穀譜」「農器図譜」の三部門から構成されており、石声漢氏は本書を『斉民要術』に次ぐ重要古農書と位置づけ、また天野元之助氏も本書の書誌学的研究、およびそこに語られた南北中国の農耕技術について詳細な研究を行っております(「元の王禎『農書』の研究」、藪内清編『宋元時代の科学技術史』京都大学人文科学研究所、一九六七年刊所収)。この『農書』中の「農器図譜」は、旧時代の中国南北地方の農具を調べる上での重要資料です。

 王禎が南北地方の農業の比較をしきりに行ったのには理由があります。それは彼の経歴に関わりがありますので、以下、少し説明しておきます。彼の出身は山東の東平出身で、一三世紀半ばから一四世紀初頭にかけての人と考えられております。元朝初期の東平は、実力者の厳実(一一八二~一二四〇)や宋子貞(一一八七~一二六六)らの尽力によって優れた儒者や人士が招かれ、いわゆる「東平府学」の形成によって多くの人材が養成されていきました。この東平府学に関わりのある王磐(一二〇二~九三)とその弟子孟祺(一二四一~九一)は『農桑輯要』の編纂に関与し、王禎もその農学の影響を強く受けたと推定されております。また王禎は東平府時代の人脈によって、江南道行御史台もしくは行大司農司の属官をつとめた可能性があります。その後、貞元元年(一二九五)、彼は宣州旌徳(安徽省旌徳)の県尹に就任し、当地で『農書』の執筆に着手し、ついで大徳四年(一三〇〇)、信州永豊(江西省広豊)の県尹に転任して、ここで本書を完成するのです。このような経歴から、王禎は華北の畑作農業を熟知していたばかりでなく、長江中流域の水田稲作にも精通するようになり、中国農業南北比較論者になっていくのです。

 王禎の「農器図譜」には、農具を主にして約三〇〇点の挿絵が掲載されております。挿絵すべてわたって、彼自身がオリジナルに作成したわけではなく、そこには宋代の楼璹の『耕織図』や曽之謹の『農器譜』(亡佚)が一部利用されております。王禎が南北地方の農器具の挿絵にこだわったのは、北方の人には南方稲作地帯の農具の特性を、南方の人には北方畑作地帯の農具の利便性をそれぞれ知ってもらうためでした。また人びとがこれらの農器具の挿絵を参照して、実物の農器具を製作してくれることを期待していたのではないでしょうか。つまり、農具の挿絵は、わが国江戸期の農学者大蔵永常(一七六八~?)が著した『農具便利論』中の挿絵と同様に、仕様書の役割を果たしていたと思われます。また王禎自身は農器具(とくに複雑なメカニズムを具えた水力や畜力駆動の農器具)に対して異常な関心を懐いており、それを見たときには心が躍り、自ずと記録のための筆が動き、それが詩と結びついて、独特の文と詩とが合体した農器具解説文が誕生したのです。王禎は農具を「太平風物」と称しております。つまり平和の象徴と考えていたのです。(最近、最もノーベル文学賞受賞に近いと噂されている小説家李鋭は、文革中に山西地方の僻村に下放された経験を踏まえ、この王禎の思想に触発されて、農具系列短編小説集『太平風物』三聯書店、二〇〇六年刊を著した。王禎の思想を理解する上で興味深い小説である)。

 この王禎の「農器図譜」についての研究に着手した頃に、京大人文科学研究所科技史研究班の田中淡教授によって『王禎農書』「農器図譜」の会読が組織され、私もこの会読に参加を要請されました。これは願ってもない機会でした。この会読は一九九一年四月に開始され、二〇〇三年三月まで続けられ、それ以後も初期の訳稿を整理補充するために、中国農業史・技術史(田中淡、渡部、佐藤実、高井たかね、福田美穂氏)、農業機械工学(堀尾尚志氏)、および中国文学(中島長文、中原健二氏)の研究者を集めたワーキング・グループによって作業が継続され、最終的には三年間継続の科研費を取得して二〇一〇年三月に完了することになったのです(この年の三月をもって田中教授は人文研を退官され、科研報告書『王禎『農書』農器図譜集訳注稿(未定稿)』が刊行された)。

 『王禎農書』読解する上で厄介であったのは、『斉民要術』と同様に、やはり版本の系統問題でした。元朝時代の版本が残っておらず、また挿絵も諸版本によってそれぞれ異なり、解放以前において、最も古いのが明の嘉靖九年(一五三〇)刊本で、最も新しかったのは民国二六年(一九三七)の商務印書館から刊行された萬有文庫排印本でした。『四庫全書』本については、七閣(文淵閣、文源閣※、文溯閣、文津閣、文宗閣※、文閣※、文瀾閣―※印は後世の戦乱などで喪失)に収められた『王禎農書』「農器図譜」中の挿絵は、それぞれがすべて異なっていたはずです。というのは『四庫全書』は版本ではなく鈔本であり、それらの挿絵制作のために、画工たちが七閣用に寸分違わぬ絵を描けるはずがなかったからです。現在、文淵閣本が影印本で容易に見られ、また文津閣本の「農器図譜」部分については、戦後に当時の科学院院長の郭沫若氏の計らいで、マイクロフィルム撮影してプリントアウトしたものが京大人文研に寄贈されましたが、両者を比較すると全く異なっております。さらに私自身、浙江農業大学(現在は浙江大学に合併)の游修齢教授の紹介状持参で、杭州市の文瀾閣の『王禎農書』の挿絵を確かめに行ったことがありますが、残念ながら太平天国の乱によって大半が失われ、全一〇冊中の数冊のみが原本で、「農器図譜」を含めた残りの部分は、民国期に嘉靖本あたりを模写して補充したものでした。『四庫全書』本の「農器図譜」は、確かに画院画家が描いたような緻密さがありますが、これは本来の元時代の亡佚した版本挿絵とは懸け離れたものであったに相違ありません。

 この『王禎農書』のテキスト問題に関しては、ニーダムの親友でもあった呉徳鐸氏(上海社会科学院歴史研究所研究員、故人)からも長文の書簡をいただき、以下のような主旨の指摘を受けました。明代の嘉靖本と萬暦本がもとの元刻本を踏襲して最も近く、『四庫全書』本は新たに編集したものゆえに性格を異にすること。また版本として武英殿聚珍版(木活字本)があり、この聚珍版にも『王禎農書』が収められているが、これを模倣して各省で出された聚珍版と称されるものには(その代表が閩版と粤版)、『王禎農書』を収めた版と、そうでない版とがあり、様ざまな版本に依拠したため挿絵も異なること。これは非常に興味深い指摘でした。

 結局、現存の『王禎農書』は大別すると嘉靖本と『四庫全書』本の二系統に区分でき、後者は王毓瑚氏(校定本の『王禎農書』農業出版社、一九八一年刊の著者)と天野氏の推定によれば、『永楽大典』からの転用であろうとのことでした。したがって、嘉靖本(平露堂本『農政全書』所収の農具挿絵はこれに依拠)が最も元刻本に近いということになります。

 私は平成一三~一五(二〇〇一~二〇〇三)年度の科研費によって、「『王禎農書』に見える中国伝統農具の総合的研究」を実施し、各テキストの「農器図譜」中の挿絵をすべてファイルに分類し、それらを比較研討した結果、前述のテキストの系統の問題にようやく納得がいったのでした。しかし、嘉靖本の挿絵にさえ本文中の解説とは合致しない農具図があることに、大きな疑問が残りました。この問題を解決するためには、中国の在来農具の調査がぜひとも必要であると考えるに至ったのです。

〔補記〕『王禎農書』の新しい校訂・訳注として以下のものがある。繆啓愉訳注『東魯王氏農書訳注』(中国古代科技名著訳注叢書、上海古籍出版社、一九九四年刊。改訂再販が繆啓愉・繆桂龍連名で二〇〇八年に刊行されている)。改訂再版の繆桂龍氏の後記によると、初版時に出版社に持ち込んだ図版が返却されず紛失されてしまったので、本書の図版には不備があるという。

 

  三、中国における伝統農具調査

 中国において農具調査を実施する前に、この方面の調査記録を調べる必要がありました。新中国成立以後には、中国内でも農機具改良のために、幾種類かの啓蒙的な書物が刊行され、そこには寸法入りの仕様書まで付されたものがありました。しかし、最も有用だったのは戦前から戦中にかけての日本人による報告書でした。そのいくつかを発掘し、私は旧知の出版社慶友社の社主伊藤ゆり氏にお願いし、以下の二冊の農具報告書、【Ⅰ】『満洲の在来農具』、【Ⅱ】『華北の在来農具』を覆刻出版していただくことにしました。当時、すでに慶友社では『台湾の在来農具』や『朝鮮の在来農具』を覆刻刊行していたからです。 

【Ⅰ】『満洲の在来農具』(慶友社、一九九三年)。本書には以下の二種類の農具報告書を収めた。

  ①『改訂・満洲の在来農具』(農事試験場彙報第二九号)南満洲鉄道株式会社農事試験場、一九三〇年

  ②満洲国実業部臨時産業調査局編『産調資料四五―一六 耕種概要(北満農具之部)―康徳元年度農村実態報告書―』一九三七年

【Ⅱ】『華北の在来農具』(慶友社、一九九五年)。本書には以下の二種類の農具報告書を収めた。

 ①中田圭治著「現地報告・北支の農業と作業機具」、『現代農業』第五巻第二号~第六巻第一号連載、一九三九年二月~一九四〇年一月の間の一〇回連載、大日本農機具協会刊

 ②二瓶貞一・松田良一著『北支の農具に関する調査』華北産業科学研究所・華北農事試験場、調査報告第一三号、一九四二年

 この覆刻版を準備中、幸いなことに『北支の農具に関する調査』の著者松田良一氏がまだご健在でしたので、愛知県の清洲町のご自宅を訪問し、往時の農具調査に関する貴重な体験と乾地農法の実際を拝聴することができました。また、このような在来農具関係書を調べてみると、そこに記録されている農器具が元の王禎時代と比べて、ほとんど変わっていないことに一驚させられました。

 ところで、調査地をどこにするかでいろいろ迷いましたが、一九八七年以後に共同研究で関係を深めてきた、京大東南アジア研究センターの高谷好一教授研究グループ(古川久雄、桜井由躬雄、田中耕司の諸氏)から声を掛けられ、中国でのフィールドワークを依頼されました。一九八九年の天安門事件が起こった年のことです。この年は文部省から、国公立大学の教員に対して訪中を控えるようにとの通達が出されましたので、科研費を有効に使うために私立大学教員の私と、当時岡山県の就実女子大学で教鞭を執っておられたC・ダニエルス(Christian Daniels、現、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授、専門は技術史、西南中国民族史)の二人に指名があり、上海を起点にして、長江下流域、四川、雲南、広東の下見調査を実施することになったのです。そして、彼と相談の結果、調査地として西南中国地方を選ぶことに決定したのです。以後、ダニエルス氏とは各種の研究奨励資金を取得して、七次、十年余にわたっての共同調査を実施いたしました。調査地域は、東南アジアと中国の国境から開始して、雲南と四川の境界、金沙江上流域、青蔵高原東部地域、四川盆地、岷江上流域、重慶直轄市の黔江地区までに達し、以下の六冊の報告書を刊行することができました。

  『雲南の生活と技術』(C・ダニエルス、渡部編著)慶友社、一九九四年刊

  『雲南少数民族伝統生産工具図録』(渡部著)慶友社、一九九六年刊

  『四川の考古と民俗』(C・ダニエルス、霍巍、渡部編著)一九九九年刊

  『西南中国伝統生産工具図録』(渡部武、渡部順子著)慶友社、二〇〇〇年刊

  『中国青蔵高原東部地域における羌族・チベット族の生活文化研究(中間報告)』(渡部編)東海大学印刷業務課印刷、二〇〇二年刊

  『四川の伝統文化と生活技術』(C・ダニエルス、霍巍、渡部編著)慶友社、二〇〇二年刊

 これらの報告書の書名からもお分かりのように、一連の調査のテーマは物質文化に限定されております。社会組織や宗教に関しての調査には、いろいろ政治的な問題がからみ、あえて回避いたしました。そのため、私は主として前述の日本観光文化研究所時代の友人で、民具学に造詣が深く、しかも優秀なフィールドワーカーでもある、以下の方がたに調査メンバーになっていただきました(所属は調査時のもの)。朝岡康二(沖縄県立芸術大学、冶金技術史)、田村善次郎(武蔵野美術大学、日本民俗学)、神野善治(同上)、印南敏秀(愛知大学、日本民俗学)、小柳美樹(駒澤大学、中国考古学)、森村謙一(広島大学大学院、中国本草学、京大人文研での研究仲間)の諸氏。一方、中国側からの参加者は以下のとおりです。尹紹亭(雲南大学、民族地理学)、霍巍(四川大学、中国考古学)、石碩(四川大学、チベット民族史)、石応平(四川大学、中国民俗学)、劉弘(凉山州博物館、中国考古学)、徐学書(成都永陵博物館、中国考古学)、李星星(四川省民族研究所、民俗学)、彭林緒(黔江開発区民族研究所、民間文学)の諸氏。とくに尹紹亭、霍巍両氏の支援がなかったならば、これらの調査の実現は不可能だったでしょう。

 上記の調査で、私が一貫して関心を懐いていたのは犂と犂耕技術でした。西南中国は地形が複雑で、その地形や標高差に応じて諸民族が棲み分けております。それぞれの民族のあいだでは千差万別の犂が用いられており、たとえば、雲南省麗江地区のナシ族の一部において、唐代の「南詔図巻」に見られるタイプと同様の犂が依然として使用されているのには驚かされました。また西南中国の水田耕作における、犂で耕し、耙(マグワ、耖耙)で土塊を粉砕する犂田―耙田体系は、その多くが明・清時代以後の漢族入植者たちによってもたらされたもので、その技術体系はミャンマー領域のアイヤワディ(イラワジ)河流域まで達しております。ただし、この農具体系が西南中国ではいつの時代にまで遡れるのかについては、まだ解明されておりません。この水田における耖耙の導入は、明らかに畑作地帯の農具体系を応用したものであり、耖耙の発明は中国の農耕技術史上において、極めて重要な出来事でした。天野氏は『耕織図』に耖耙での作業が見られるので、その発明を宋代と推定しております。しかし、南朝梁代の宗懍の『荊楚歳時記』(六世紀)には、この農具の組合せ記述(ただしテキストが不備なので若干問題あり)が見られ、また広東デルタ地帯、およびその周辺地域の西晋末から東晋時代の墓葬から明器の「犂田・耙田模型」が発見されておりますから、耖耙の発明は宋代よりはるかに古かったのです。たぶん後漢末から西晋末にかけての頻繁な政治的混乱、および人口の玉突き型流動現象によって、長江流域で考案された耖耙が嶺南地方に伝えられたものと考えられます(詳しくは拙稿「漢・魏晋時代広東地方出土の犂田・耙田模型について」、『もの・モノ・物の世界―新たなる日本文化―』雄山閣、二〇〇二年刊所収を参照)。

技術移転を論ずる場合、近代的な技術が支障なく受け入れられるということはありません。農具の場合を例にとってみると、身の丈にあった技術と原材料供給とがうまく合致、循環しないと、新しい技術に対して拒絶反応を起こします。伝統的な鉄匠(鍛冶職人)や鏵匠(犂先鋳造職人)は、その地域で放出されたスクラップをリサイクルすることによって、新しい製品を製造いたしますが、そこに自動車の廃材で特殊な鉄合金が加わると、加工処理が出来なくなります。またある程度量産できる都市の工場製品の鎌や鍬は値段が安く、汎用性が高いので、そのような農具は急速に普及していきます。ただし、犂の場合は、その土地の土壌性質、挽畜の馴致技術、および農法なども関係してくるので、近代的な犂の導入に対しては思ったよりも保守的です。技術は常に右肩上がりで進歩するとは限らないのです。これら一連の農具調査を通して、私は貴重な経験を積むことができました。

 

  むすび―中国農業史研究とフィールドワーク―

 以上、古農書『斉民要術』、農業史に関わる画像資料、農桑図絵、農書の挿絵、さらには農具などの生産工具の調査に従事したことなどについて長広舌を振るってきました。中国農業史の研究は机上だけでは処理しきれぬ分野なのです。私は、一九八〇年代末期から中国農具調査に従事してきたのですが、その目的の第一は、中国農業史研究での文献史料の不足を補完することと、第二は、中国政府による改革開放経済政策や西部大開発政策の強力な推進によって、多くの伝統的な生産工具やその技術が急速に失われていくことを危惧し、早期の調査記録の必要性を感じたからです。当時、一部の研究者を除いて、「どうしてこのような見慣れた農具や技術にこだわるのだ」と、冷ややかな言葉を浴びせられたこともあります。しかし、予想していたように、八〇年代にわれわれが記録した西双版納地方のタイ族の水力サトウキビ搾り機は、それから数年後に消滅してしまいました。また同じ頃に灌漑農具の龍骨車も全国から消えていきました。最近では、中国内でも「民具研究」(やや民芸研究寄り)が開始されるようになりました。そう考えると、元代の王禎や明代の宋応星は偉大な記録を残したことになります。今後、できるだけ迅速に中国の研究者たちは、お互いに連絡を取り合い、共同で生産工具ばかりでなく、その背後にある人びとの営みを記録してもらいたいものです。